
今回のコラムでは、真言宗の中興の祖興教大師についてお話したいと思います。
宗祖弘法大師空海の教えを忠実に守り現在の真言宗智山派のみならず真言宗全体の存続に尽くされた方です。 インターネット上では幾つかの解説もありますが、お人柄が分かる様に書いてみました。
来歴
興教大師様は、真言宗の中興の祖と仰がれる高僧で、正式には正覚坊 覚鑁(しょうかくぼう・かくばん)上人と言い、1095年6月17日、肥前國藤津庄(今の佐賀県鹿島市)に名門の家柄で、父、伊佐平次兼元(いさのへいじかねもと)の男兄弟四人の三男に生まれ、幼名を彌千歳麿(やちとせまろ)と言います。
家は仏教的信仰の篤い家庭で育ち、出家の動機はこう述べられている。
”長男が「三界で一番偉いお方は大日様で有る」と長男が語ると彌千歳麿は「それでは自分は、大日様に成る」と言われています。
事情は定かでは無いが、少年時代に父を亡くし、兄弟四人ともに出家し、さらには母までもが出家されて妙海尼になります。
実家の南に有る蓮厳院(鹿島市山浦に有り真言宗御室派で今の仁和寺末)の覺成(かくじょう)阿闍梨に従って得度されました。
覚鑁はとても秀才であった為、覺成阿闍梨は”一日も早く師の御坊へ連れて行くべきだ”とまで考えていた様である。
13歳の時、京都の洛北成就院の寛助僧正の室に入り他の二少年と共に慶照入寺で修行することになる。
当時のこんな事が記されてある。
寛助僧正が修行僧三人の扇を見た時に彌千歳麿の扇にはこう書かれてあった。
”佛は大日、法は真言、所は高野、高野には定尊”と。
いかに大日如来を理想としてひたむきな修行、練行を行っていたかを物語っている。
彌千歳麿は奈良の南都興福寺で唯識、倶舎を学ぶ事になる。
しかし、この時歳は14歳の少年である。
何度も言う様であるが、本当の秀才だと言う事である。
空海の幼き真魚の時に良く似ている。
東大寺で華厳、三論を学ばれたが、この三論法相は空海が御遺告に「三論法相を学べ」と書いている様に真言学の基礎がここにある。
つまり真言教学は南都六宗の基礎学の上に成り立っていると述べている。
念願の高野山に登上されたのは20歳。
ここで数々の修行を行う事になる。
覚鑁上人と言えば”無言行”につきる。とまで言われる程、数多くの無言行をされている。
特に「求具持法」(ぐもんじほう)は八度にして悉地を得られず9度目にして成就されている。
(求具持法については大師空海も四国で勤修されているが、密教のコーナーで詳細に述べる事とする。)
鳥羽上皇の御命で大伝法院を建立し、その後、大伝法院と金剛峰寺両寺の座主を兼ねて高野山全体を統括する事に至ります。
大伝法院の建立には僅か1年足らずで落慶に至っている。
それには補足しなければならないことが有ります。
それは工事をしている中、天台宗の行尊阿闍梨が高野参拝にこられ、そのまま山上に滞在されたのであるが、偶々大伝法院建立のお話を聞いて自ら大伝法院の工事に尽力されたのです。
上人のひたむきな姿に心をうたれて宗派を越えての支援のお話には胸が篤くなります。
その後、覚鑁上人は高野の復興を継続されるのであるが、常住方(元々高野に居た僧侶側)に反感や妬みを持たれ、座主を追われることになります。
高野は荒れていて僧侶とは名ばかりの堕落した僧がはばかっており、そんな姿を観て覚鑁上人は『懺悔の文』(さんげのもん)をお書きになりました。
(この『懺悔の文』は、このコラムの最後で詳細に記載しております。)
座主職を眞譽阿闍梨に譲って密厳院に引退籠居せられたにも拘わらず常住方は密厳院を襲い、乱暴の限りを繰り返ました。
(ただ補足しなければならないのは、その頃高野の周りでは治安が悪く防衛の為に僧兵を雇う様になっていました。)
そして覚鑁上人は高野を後にし、無事に根来に辿り着くことになります。
迫害に遭う中、この”無事”という所には幾つかの伝説が有ります。
(1)追われて稲荷池に飛び込み木彫の卒塔婆に成ったお話(龍池の説話)
(2)悪僧が上人を密厳堂に追い立て堂内を見渡すと不動尊が二体有り、二体の不動の足に矢を放つと二体共流血したお話(きりもみ不動の説話)
そうして根来寺に移った覚鑁上人は根来で空海の法灯を継ぐことになります。
ここからが新義真言宗と呼び、以前の高野派を古義と呼びます。
根来
根来に辿り着いた覚鑁上人は理想的な修禅道場を計画される。
そして、圓明寺(えんみょうじ)と大神宮寺を建立されたのである。
覚鑁上人は根来に移っても高野同様、無言行を続けるのである。
これから上人は”阿字観”(あじかん)を多く修される。
阿字観については本来密教の項目で説明されるべきものだが、詳細は避ける事にする。
(これは、行に精通された僧が伝授、指導されるべき行だと思うからである。)
こうして覚鑁上人は伽藍の造営に尽力されるのみならず高野同様、学徒の育成にも尽力され順風満帆になるはずで有った。
ところが、そうでは無かった。
康治元年(1142)八月末の事、国士並びに常住方は何処までも上人を追いつめ、伝法院の庄内に乱入し寺僧・所司・神入・寄人など31人を捕らえ、衣服・乗馬・供米などを押収したので有った。
更に同年十月、数百の軍兵と数千の人夫を使い仏像を含め伽藍を焼失させ庄内の稲大豆等を刈り取り持ち去り、在家三百余りの家を破壊し・・・
つまり、狼藉(ろうぜき)の限りをつくしたのである。
そして、上人が御入滅された後もこれは続くのである。
こうして根来に移って僅か三年で、覚鑁上人は根来・持聞道場に於いて求持聞法を修し四十七歳で御入滅されるが、行に対しての気持ちは少しも変わらなかった様である。
私が感じる所、本当の”ほとけ”になっていたのだと思う。
その法灯は今も灯し続けるのです。
現在は、新義・古義には関係無く、真言宗と言う弘法大師空海の教えを広く伝える為に各派の方々が尽力されています。
付け加えると、我々智山派の僧も高野や他の宗派の寺院で手篤く歓迎して頂ける事に感謝し結びの言葉にかえさせて頂きます。
南無興教大師 南無遍照金剛
合掌
平成19年9月12日
全真言宗の青年会で開催された【真言宗十八総大本山巡拝】に行って参りました。
多くの宗派に分かれてしまった現在の真言宗ですが、弘法大師がおられた時代には”教えは一つ”の気持ちを大切に全ての真言宗の僧侶が集まり十八総大本山を巡拝しました。

順路の都合とも思いますが、最後が高野山では無く、この覚鑁上人が眠られている根来で結願出来たのも偶然では無い気がします。
結願の後に、そこに居た僧侶10名ほどで御廟前での法楽を上げさせて頂きました。

懺悔文
以下に密厳院発露懺悔文(みつごんいんほんろさんげのもん、又は”ほつろ”と読む)を掲載しました。
これは私が修行時代に使っていた次第を書き留めてその訳を修正したものです。
六月には、七月から始まる加行(けぎょう)に向けての前行として繞堂行(にょうどうぎょうと読み根来のお堂をお経を読みながら練り歩く)を行いますが、最後の結願(けちがん)の時に奥の院の御廟の前(興教大師の墓)でこの懺悔の文を読みます。
ここで涙を流さない僧はいないと思います。
(私たちの中には大声を出して泣くものさえ居ました。)
我々智積院の修行僧たちはこの繞堂行を終えた後に根来の寺院(山門、大塔、伝法院など)の掃除をします。
勿論御廟の中に入って作務(雑草取りなど)をすることが出来ます。
とても光栄なことで一生忘れられない思い出でした。
この懺悔の文は僧侶にとって必ず行わなくてはならない戒めです。
全て実行している僧がいるとすれば、その方は既に即身成仏されているはずです。
これを読むと常に”後ろめたい”気持ちになるのです。
覚鑁上人が如何に優れ且つ、
仏に近い(既に仏になっていた)方だった事がうかがえると思います。
懺悔の文はPDFのファイルでルビ(ふりがな)をうっておきましたので下記よりダウンロード出来ます。
A4見開きで真ん中から折ればA5のサイズになります。
なお、この懺悔の文は真義真言宗、豊山派、智山派、他で所々読みが微妙に違いますのでご了承ください。
●密厳院発露懺悔文根来(PDF)113KB
(真義真言宗結集時の次第で読み上げたものなのでこれを標準とします)


